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老若男女を次々と殺害、堂舎や家焼き払う 「魔王」信長の所業と

 
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登録日: 2008.01.20
記事: 2492

記事日時: Mon Dec 20, 2021 4:39 pm    記事の件名: 老若男女を次々と殺害、堂舎や家焼き払う 「魔王」信長の所業と 引用付きで返信

 炎が山上山下を焦がし、延々と続く殺戮[さつりく]。まさに地獄絵図だったろう。450年前の1571(元亀2)年9月12日、天下取りを目指す織田信長が、天台宗総本山・比叡山延暦寺(大津市)の焼き打ちを実行した。明智光秀や木下(豊臣)秀吉ら信長軍の精鋭3万が麓の坂本から攻め上がり、僧侶をはじめ逃げ惑う老若男女を次々と手にかけた。犠牲者は3千人とも伝わり、堂舎は焼き尽くされた。「魔王」信長の暴虐非道に人々はおののき、京の公家は「仏法破滅」と嘆いた。

 殺戮は夜明けとともに始まり、まず麓の坂本(大津市)の堂舎や民家を焼き払った。人々は比叡山や八王子山に逃げ込み、信長軍は隊を分けて山を囲み、山上を目指した。

 焼き打ちの様子を「信長公記」は詳細に伝える。

 「霊仏、霊社、僧坊、経巻一宇も残さず、一時に雲霞のごとく焼き払ひ…俗、児童、智者、上人一々に頸[くび]を切り」。軍勢は鬨[とき]の声を上げて攻め上がり、信長に首を届け「これは高僧」などと言上。「お助けください」と哀願する者も一人残らず首を打ち落とした。数千の死体がころがり、目も当てられぬありさまだったという。

 この惨状は京に伝わり、公家の山科言継[ときつぐ]は日記に「仏法破滅、説くべからず、王法いかがあるべき事や」とつづった。

 なぜ信長は非道な軍事作戦を強行したのか。

 焼き打ちの3年前、尾張の一大名にすぎなかった信長は足利義昭を奉じて上洛し、中央の表舞台に鮮烈なデビューを果たす。

 1570(元亀元)年4月、信長は越前の朝倉義景を攻めるが、同盟関係にあった湖北の浅井長政の裏切りで窮地に陥り退却。その後、信長が摂津に進軍すると、その隙を突く形で9月、浅井・朝倉連合軍が坂本に侵攻し、前線の宇佐山城から打って出た信長方の猛将森可成[よしなり]が討ち死にした。

 信長が急きょ大津に陣を移すと、浅井・朝倉連合軍は比叡山にこもった。この時、連合軍を支援したのが延暦寺だった。和議の成立で連合軍は兵を引いたが、延暦寺は最後まで信長との和睦を拒絶。この敵対行為が、翌年の焼き打ちにつながっていく。

 当時の延暦寺は僧兵を擁し、朝廷への影響力もあり、権勢を誇っていた。ただ、風紀は乱れていたようだ。焼き打ちの前年に延暦寺を訪れた興福寺の多聞院英俊は「僧衆はおおむね坂本に下りて乱行、不法限りなし。修学廃怠…悲しむべし」と嘆いている。

 焼き打ち決行のわずか10日前、明智光秀が大津市雄琴の土豪・和田秀純[ひでずみ]に宛てた書状が残っている。光秀は、宇佐山城の森可成が敗死した後、新たな城主に抜てきされた。

 書状は、和田氏と同市仰木の土豪八木氏が宇佐山城に入ることへの礼状で、両氏の織田方への加勢に涙を流して感激し、恩賞は望み次第、弾薬・兵士も補給するとしている。

 注目は「仰木の事は是非ともなで斬りに仕[つかまつ]るべく候」の一文。仰木地区は延暦寺の横川の山麓にあり、「(比叡山に味方する)仰木は何としても片っ端から斬り捨てる」と宣言している。和田氏の子孫の和田光生・元大津市歴史博物館副館長は「光秀が比叡山焼き打ちを前提に地元の土豪を懐柔し、味方につける工作をしていたことが、手紙から分かる」と話す。

 NHK大河ドラマ「麒麟[きりん]がくる」では、光秀は焼き打ちに胸を痛め、逃げ惑う女子どもを助けたが、実像は違うようだ。焼き打ちの後、光秀は重要拠点の滋賀郡を与えられ、坂本城の築城も認められた。家臣団の中での際立つ武功がうかがえる。

 日本史に刻まれる焼き打ちから450年。節目の9月12日に延暦寺で慰霊法要が営まれた。初めて信長と光秀の子孫も参列し、恩讐を超え、戦のない世を希求した。

■明智光秀書状の現代語訳(追伸部分省略)

 御折紙(手紙)を拝見しました。(和田・八木氏が)当城(宇佐山城)へ入られて加勢されたこと喜ばしく思います。またこの度の城内での働きも素晴らしいものでした。八木方に会い感涙を流しました。両人(和田・八木氏)の心構えについて大慶に存じます。加勢の内容については両人(和田・八木氏)にお任せいたします。鉄砲の筒・玉薬についても勿論入れてください。

 この度のことについて、皆はまだ両人(和田・八木氏)を疑っているようで、後詰めが遅れているのは仕方のないことです。人質を出したのに疑っているようでは報いを受けることになるでしょう。石監・恩上が来た時も疑うことを止められよとのことを再三おっしゃっており、思っていた通りとなり、我々として満足しております。次に幼き者(子息)のことについて、登城の際に連れてきていただき、八木(の子息)はこちらに(人質として)逗留してもらいます。弓矢八幡日本国大小神祇に誓って我々は疑いません(危害を加えません)。皆々が口々に何かを言ったとしてもその口を塞ぎます。両人へ恩賞の地を遣わしますので望みを聞かれてお越しください。

 (比叡山に味方する)仰木は何としてもなで斬りにします。(それは)直ちに本懐となるでしょう。ちょうど朽木左兵衛尉殿から連絡があり、信長公は昨日に志村城をひしころし(干し殺し)にして落とされたとのことです。雨が止み次第、長光寺へ入る予定とのこと。

恐々謹言 明十兵(明智十兵衛尉)
(元亀二年)九月二日 光秀(花押)
和源殿(和田源内左衛門・和田秀純)

※大津市歴史博物館特集展示「明智光秀と戦国時代の大津」解説パンフレットより
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