情報掲示板
FAQ
検索
メンバーリスト
ユーザーグループ
登録する
プロフィール
プライベートメッセージをチェックする
ログイン
情報掲示板 Forum Index
->
歴史と幕末
返信を投稿
ユーザー名
件名
メッセージの内容
Emoticons
すべて表示する
文字の色:
指定なし
Dark Red
Red
Orange
Brown
Yellow
Green
Olive
Cyan
Blue
Dark Blue
Indigo
Violet
White
Black
文字のサイズ:
7 px
9 px
12 px
18 px
24 px
タグを閉じる
[quote="管理人"] 放火しか考えていない(豊臣秀頼方の)悪党が京に多くいる−。大坂夏の陣直前の洛中の状況を克明に記した記述が、当時、京都にいたオランダ東インド会社商務員の書簡で確認された。国際日本文化研究センター(京都市西京区)のフレデリック・クレインス准教授が和訳した。二条室町の商人宅に滞在中だった商務員が書いており、「町衆に近い目線で記した貴重な資料」という。 ■日文研准教授「町衆に近い記述」 書簡はグレゴリオ暦(太陽暦)1615年5月28日(和歴5月1日)付で長崎の平戸商館長宛て。オランダのハーグ国立文書館に現存している。明治期に刊行が始まった日本史資料集「大日本史料」(東京大史料編纂(さん)所編)に一部が和訳されているが、今回初めて全文訳が判明した。 駿府記など古記録によると、当時、徳川方の大名・古田織部に仕えた木村宗喜が豊臣方と内通。二条城にいた家康が大坂に出陣後、京都に忍ばせた者たちに京中に放火させ、家康の退路を断とうと画策した。「土御門泰重卿記」は「大坂ヨリ火付三百人京都ニカクレ」と記す。だが、計画は露見し、木村宗喜ら数十人が捕らえられたという。 商務員の書簡では当時の状況を<一人でいると、どんな災いに遭遇するか分からない。現在、当地(京都)に多くの悪党や盗賊がおり、毎日捕まっている><彼らは京都の町に放火することしか考えていない>などと記していた。 その半月前の5月10日(和歴4月13日)付書簡では<京都の人々は(豊臣方による)焼き打ちを恐れ、多くの荷物を安全な場所に持ち去った>としつつも<毎日、多くの(徳川方の)大名や兵士が京都に到着している>ことで<焼き打ちに遭う恐れがなくなっている>と記述。人々が安堵(あんど)していた様子がうかがえるが、内通者による放火は想定外だったようだ。クレインス准教授は「当時の記録は武士や公家のものが多い。町衆に近い記述は意義深い」と話す。 ・オランダ東インド会社 東洋進出を目指し、オランダが1602年に設立した貿易会社。ジャワ島のバタビア(現ジャカルタ)を拠点に香辛料などの貿易を進めた。日本では09年に江戸幕府から貿易の許可を受けて平戸に商館を開いた。18世紀に入ると利益が減り、1799年に解散した。[/quote]
オプション
HTML is
OFF
BBCode
is
ON
Smilies are
ON
この記事の BBCode を無効にする
この記事の Smilies を無効にする
All times are GMT + 9 Hours
移動先:
フォーラムを選択
情報掲示板
----------------
お 花
源氏物語・文学
歴史と幕末
花 街
古典芸能
飛雲庵
教育・修学旅行
他 道府県
海外情報
桜情報
----------------
京 都
滋 賀
奈 良
その他
紅葉情報
----------------
京 都
滋 賀
奈 良
その他
雑 談
----------------
京都関係
お知らせ
----------------
更新情報 他
時々気にしてください
トピックのレビュー
投稿者
メッセージ
管理人
日時: Mon Aug 21, 2017 5:34 pm
記事の件名: 「豊臣方が京都で放火画策」 大坂夏の陣前にオランダ人書簡
放火しか考えていない(豊臣秀頼方の)悪党が京に多くいる−。大坂夏の陣直前の洛中の状況を克明に記した記述が、当時、京都にいたオランダ東インド会社商務員の書簡で確認された。国際日本文化研究センター(京都市西京区)のフレデリック・クレインス准教授が和訳した。二条室町の商人宅に滞在中だった商務員が書いており、「町衆に近い目線で記した貴重な資料」という。
■日文研准教授「町衆に近い記述」
書簡はグレゴリオ暦(太陽暦)1615年5月28日(和歴5月1日)付で長崎の平戸商館長宛て。オランダのハーグ国立文書館に現存している。明治期に刊行が始まった日本史資料集「大日本史料」(東京大史料編纂(さん)所編)に一部が和訳されているが、今回初めて全文訳が判明した。
駿府記など古記録によると、当時、徳川方の大名・古田織部に仕えた木村宗喜が豊臣方と内通。二条城にいた家康が大坂に出陣後、京都に忍ばせた者たちに京中に放火させ、家康の退路を断とうと画策した。「土御門泰重卿記」は「大坂ヨリ火付三百人京都ニカクレ」と記す。だが、計画は露見し、木村宗喜ら数十人が捕らえられたという。
商務員の書簡では当時の状況を<一人でいると、どんな災いに遭遇するか分からない。現在、当地(京都)に多くの悪党や盗賊がおり、毎日捕まっている><彼らは京都の町に放火することしか考えていない>などと記していた。
その半月前の5月10日(和歴4月13日)付書簡では<京都の人々は(豊臣方による)焼き打ちを恐れ、多くの荷物を安全な場所に持ち去った>としつつも<毎日、多くの(徳川方の)大名や兵士が京都に到着している>ことで<焼き打ちに遭う恐れがなくなっている>と記述。人々が安堵(あんど)していた様子がうかがえるが、内通者による放火は想定外だったようだ。クレインス准教授は「当時の記録は武士や公家のものが多い。町衆に近い記述は意義深い」と話す。
・オランダ東インド会社 東洋進出を目指し、オランダが1602年に設立した貿易会社。ジャワ島のバタビア(現ジャカルタ)を拠点に香辛料などの貿易を進めた。日本では09年に江戸幕府から貿易の許可を受けて平戸に商館を開いた。18世紀に入ると利益が減り、1799年に解散した。
Powered by
phpBB
© 2001, 2005 phpBB Group
Traduction par :
PHPBB JAPAN
[20050508] ::
JP Support Forum